1893 – 1976
湖南省韶山の地主に生まれる。父は商才があるがDV男、母は優しい人。二人の兄は夭逝。長男として育てられ弟が二人。
1907(14)
父の勧めで羅一秀(らいっしゅう)という年長の女性と結婚。3年後に病死。
1909(16)
湖南省の首都長沙で農民の暴動。毛家も襲われる。
1911(18)
辛亥革命が起こると革命軍に志願。革命のリーダーである孫文により清王朝が倒され中華民国が建国される。
孫文は臨時大統領となるが、皇帝を退位させることを条件に軍の大物(軍閥)の袁世凱(えんせいがい)に大統領の座を譲る。
孫文の立てた政権は南京に首都を置いていたが、大統領となった袁世凱は北京へ首都を移した。
1913(20)
革命軍を辞めて長沙にある湖南省立第一師範学校に入り直す。恩師の楊昌済(ようしょうさい – 英国留学経験のある解明的な知識人)に出会う。
1916(23)
袁世凱が亡くなり段祺瑞(だんきずい)が後継者。
黎元洪(れいげんこう)が大統領となる。
1917(24)
ロシア革命が起きる。
孫文は北京政府に対抗すべく西南の軍閥の力を利用し広東政府を樹立。だが内紛により孫文は追放させられる。一時は日本に亡命。
1918(25)
母と父を相次いで亡くす。
北京大学の教授となった楊の勧めで北京大学の図書館の司書補として働く。
このときに共産主義理論と出会う。
1919(26)
パリ講和会議により敗戦国ドイツがもつ広東省の権益が日本に譲渡される。これにより中国全土に反日愛国運動が広がり共産主義運動と結びつく。
長沙に戻り初等中学校の歴史教師となる。遺産のおかげで生活には困らず、出版社を設立して理論し「湘江評論」を創刊。
12月 – 軍閥追放団を率いて北京に再び向かう。楊教授宅に居候する。
ロシア革命に成功したボリシェヴィキは続いて世界各国でも革命が起きるだろうとの楽観的な見通しの下、共産主義インターナショナル(通称コミンテルン/第三インターナショナル)を設立。
1920(27)
楊教授死去。娘の楊開慧(ようかいけい)と結婚。
長沙師範学校付属小学校の校長となる。
1921(28)
7月 – 中国各地の共産主義運動が統合されるかたちで、上海のフランス租界にて中国共産党第一次全国大会が開催。毛沢東もメンバーのひとりとして参加。党員数は60人程度、参加者12人程度。長沙では8つの労働組合を組織し書記(専従の活動家)になっていた。
1923(30)
中国共産党大会で国民党と合併して北京政府と戦うことが決まった(第一次国共合作)。この時点では政党としての歴史と規模において国民党の方が上なので対応合併ではなく、国民党が共産党を吸収合併。ソ連の意向、指導による。
毛沢東は共産党中央委員会の仕事と国民党中央執行委員会の仕事を兼務。労働運動や農民運動の中核を組織。
1925(32)
孫文死去。汪兆銘(おうちょうめい)が国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任。中国共産党もメンバーとして政府に参加。
1926(33)
国民党内で抗争が起き蒋介石(しょうかいせき)が実験を握る。
蒋介石は北方の軍閥を倒そうと挙兵(北伐)。解放軍として歓迎される。
ついに国民党による政府が武漢で樹立される。
1927(33)
周恩来(しゅうおんらい/日本、フランス、イギリスなどで学んだエリート。毛沢東の5歳年下。パリにいるときに中国共産党のフランス支部組織を作った。1924年に帰国し蒋介石が校長を務める国民党の幹部候補生のための黄埔軍官学校の教官となる。)の共産党軍が上海で軍閥を追放。市民政府を樹立。
蒋介石率いる国民党の北伐軍が共産党を裏切り上海に入場。共産党系の組織労働者たち3百人あまりを虐殺(上海クーデター)。
蒋介石による共産党への弾圧・虐殺は、南京、広東、湖南省でもなされた。
周恩来は捕らえられたが、死刑になる寸前に脱出。
コミンテルンの出した方針は、国民党内で蒋介石と対立している武漢政府の汪兆銘との同盟。しかしもともと反共のため共産党を武漢から追放。ここに国共合作は完全に崩壊。
コミンテルンは国共合作の責任をすべて中国共産党総書記の陳独秀(ちんどくしゅう/結党時からの中枢メンバーで初代総書記。日本への留学経験があり北京大学の文科学長であったインテリ)になすりつけた。
陳独秀に代わって台頭してきたのが、瞿秋白(くしゅうはく/官僚の家に生まれモスクワに留学したエリート。陳と同様にソ連のいいなりになり後に失脚)、李立三(りりつさん/フランス留学の経験がある)、周恩来の3人。
武漢を追われた共産党のメンバーは南下し湖南省の南昌に集まる。武装蜂起(8月1日)をするが5日で撤退。広東に向かうが国民軍により壊滅させられる。周恩来は逃亡。しかしこの放棄した日は中国共産党紅軍(人民解放軍)の成立記念日となる。
陳を総書記から罷免。後任の総書記に瞿秋白が就く。国民党とは絶縁。
秋の収穫の時期に反撃として農村地域で武装蜂起を決行(秋収蜂起)。国民党との合作をベースにした右派路線から武闘派の左派路線への転換。
毛沢東は湖南省での蜂起を担当するが壊滅。人民解放軍として農民の支持を得ながら党中央の命令を無視し井崗山に籠る。「農村が都市を包囲する」という革命戦略を打ち立てる。朱徳(しゅとく)や林彪(りんぴょう)といった後の中枢メンバーが合流。
楊開慧は二人の子供を連れて長沙で共産党の地下活動に従事。
1928(35)
井崗山にいる間に賀子珍(がしちん)を妻とする。
中国共産党の大会がモスクワで開催される。武装蜂起が失敗した責任を取らされ瞿秋白は失脚。後任は向忠発(こうちゅうはつ/元船頭)。だが真の実力者としては政治局員の宣伝部長を担った李立三であった。周恩来は軍事部長と組織部長を兼任。
1930(37)
中国共産党政治局は李立三の大都市攻撃計画を決議。
毛沢東と朱徳が率いる紅軍が長沙で戦っている間、楊開慧が国民党の軍に捕らえられる。毛沢東との離婚と非難声明を出せば助けるとの取引を持ちかけられるがこれを拒否し銃殺される。
都市総攻撃作戦が失敗に終わったことを受け、コミンテルンはモスクワに留学していた若い幹部候補生たち(28人のボリシェヴィキ)を急遽上海に派遣し、向忠発に李立三を追放。
江南省の共産党支部でスパイ疑惑が持ち上がった、毛沢東は李立三派の支部委員会幹部数名を捕らえ監禁。幹部奪還の叛乱が党内で起こるが毛沢東はこれを鎮圧。結果4,400名を処刑。
江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国臨時中央政府の樹立を宣言。毛沢東が主席となる。
1932(39)
日本が清王朝の末裔の溥儀を擁立して満州国を樹立。
ソ連帰りの留学生幹部たちが毛沢東を「不能との決定的闘争を怠っている」として攻撃し、毛沢東から紅軍の指揮権を奪う。
1933(40)
蒋介石軍の瑞金包囲は一年余りも続いた。餓死者が100万人を超える。
1934(41)
毛沢東は党中央の命令を無視し、紅軍の兵士と民間人合わせて15万人を撤退させ敵の包囲網を突破(長征)。
1935(42)
毛沢東は中国共産党中央政治局拡大会議を開く。ここで周恩来が毛沢東の戦略を肯定。これまで指導的立場にいたモスクワ留学生の博古(はくこ)が失脚。周恩来は最高軍事指導者、毛沢東は中央書記処書記となり長征を指揮。他に王名(おうめい)が指導的立場。
10月:紅軍は陝西省呉起県(現在は延安市)着き、毛沢東は長征が終わったと宣言。結果としてたどり着いたのは8千人。1年かけて12,500キロを歩いて移動。
長征の間に賀子珍も同行し子供を産む。
1936(43)
紅軍の指導機関である中華ソヴィエト共和国中央革命軍事委員会出席に就任し、軍の主導権を掌握。
日本の関東軍の謀略で爆殺された張作霖の長男の張学良(ちょうがくりょう)は蒋介石と同盟し共産党討伐に参加。やがて蒋介石と対立し周恩来と接触。蒋介石は張学良を見限るが、逆に拉致・監禁される(西安事件)。
共産党は蒋介石を消したかったがコミンテルンに反対される。コミンテルンは満州国に危機を感じていたがヨーロッパではドイツと対峙してるため極東での戦闘は避けたく、蒋介石の国民党軍が日本と戦い消耗することで共産党の革命を実現させようと意図。
蒋介石は解放される。
1937(44)
盧溝橋事件が起きて日中関係がいよいよ悪くなると第二次国共合作が成立。
ソ連は国民党政府との間に中ソ不可侵条約を結ぶ。
毛沢東は日本との戦闘後の国民党との対立を考え日本軍との激しい衝突は避ける。
1938(45)
女優の江青(こうせい)と出会う。
賀子珍は長征での精神的、肉体的な過労から病に倒れ療養のためモスクワに。
1939(46)
結婚後20年は常務と政務に関与させないという契約をして江青と結婚。
1941(47)
停戦していたはずの「国民党軍が共産党軍を襲う。この戦乱で王名の側近が殺される。共産党内の政治局内のバランスが崩れ王名は失脚。
政治局拡大会議が開かれ毛沢東の考案により「整風運動」が始まる。これにより多くの者が党を追われた。また毛沢東は議事を記録した資料の再検討をするための中央学習会を設立し責任者となる。さらに中国共産党の党史を調査するための委員会も設立し自らメンバーとなる。
1943(49)
中央政治局主席と中央書記局主席となる。
1945(51)
中国共産党中央委員会主席に就任。「毛沢東思想」という言葉が投機的に指導理念として加えられる。
共有の敵である日本が敗北。蒋介石と重慶で会談し、国共和平・統一について議論をした結果、蒋介石を最高指導者とする統一国家形成に合意。しかし利権問題で国共内戦が勃発。
1949(55)
国民党政府の首都となっていた南京を制圧、蒋介石率いる国民党軍は台湾に逃れる。
北京の天安門壇上に立ち中華人民共和国の建国を宣言。
中華人民政府主席は毛沢東。政務院総理(首相)は周恩来。中央政府副主席、副総理、完了ポストの半数は非共産党員。
1953(59)
社外主義への移行を表明。ソ連をモデルとした第一次5カ年計画をスタートさせ農業の集団化が推進される。
1954(60)
全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表会議が設置され、中華人民共和国憲法が制定される。国家主席というポストが設置され毛沢東が就任。国務院総理(首相)は周恩来。全人代常務委員長は劉少奇(りゅうしょうき)。国家副主席には朱徳、国務院副総理、その他の要職もすべて共産党員となる。
1956(62)
中国共産党への党外から批判を大歓迎するという「百花斉放、百家争鳴」運動を始める。
1958(63)
批判をした者のうち55万人が「右派分子」というレッテルがはられ、市民権を剥奪され強制労働を強いられた。そのうち30万人が過酷な労働で死ぬ。
鋼鉄などの主要工業生産高でイギリスを15年以内に追い越すことを目標とした大躍進制作を始める。しかし、品質も生産高も上がらない一方、農業が疎かになる。実際の状況を報告すると自分の責任となって粛清されるため、国家と党の中枢は実態が把握できなかった。
1959(64)
大飢饉が中国全土を襲う。
彭徳懐(ほうとくかい)国防部長が「外躍進制作は失敗」だと指摘。国防部長と中央軍事委員会委員を解任され文化大革命の最中に逮捕され拷問死。
国家主席の座を劉少奇に譲る。しかし共産党中央委員会主席の座は維持。
1962(67)
少なくとも2000万人、多くて5000万人が餓死したとされる。ようやく大躍進の失敗を認める。
経済政策は劉少奇と鄧小平(とうしょうへい)が担当。
1963(68)
農作物の生産量は上昇し中国経済は回復に向かう。
毛沢東を支持していた林彪は「毛沢東語録」を刊行し毛沢東の威厳を国民に訴える。
1966(71)
党、政府、軍と各文化界に紛れ込んだブルジョア階級の代表分子、反革命修正主義分子を打倒するための中央文革少組を設置。若者を中心とした破壊的な紅衛兵組織が結成される。
劉少奇の党内序列が2位から8位に。鄧小平は平党員なみに格下げされる。その代わり林彪が2位に。
1969(74)
江青は政治局委員として文化大革命の中心的指導者となり粛清を繰り返す。紅衛兵も大量殺戮を続け、推定数百万から数千万の犠牲者を出す。
劉少奇は幽閉されたまま暴行死。
1971(76)
毛沢東に警戒された林彪がクーデターを計画するが失敗。亡命を図るが航空機が墜落して死亡。
1972(77)
中国とソ連の関係が悪化する中、ニクソン米大統領と会談、田中角栄首相と日中国交回復を実現。
1974(79)
人材難により鄧小平を呼び戻し復権させる。鄧小平は文革を終わらせようとするが江青らの抵抗により挫折。
1976(81)
周恩来が亡くなる。党内序列2位に江青が浮上するが、後継者には華国鋒(かこくほう)を指名。
朱徳が亡くなる。
毛沢東が亡くなる。
江青が逮捕され文化大革命はようやく終わる。死刑判決となるが1991年に自殺。
参考:中川 右介『悪の出世学』幻冬舎新書, 2014