ソビエト社会主義共和国連邦第2第二大最高指導者スターリン。社会主義革命の名の元に彼が虐殺した人々の数は実に数百万人にのぼるといわれています。レーニンやトロツキーをはじめとしたロシア革命を主導した人物は皆、格式の高い家系に属すインテリ層でした。靴職人の父と農奴の母の間に生まれ、田舎の神学校で育った少年スターリンは、どのように権力を勝ち取り赤い皇帝として恐れられるようになったのでしょうか。
前期
- 1878年(0歳)
- 12.18 ロシア帝国領のグルジアのゴリ市に生まれる。父は靴職人(だが暴力をふるうDV男)。母は農奴。実質的には長男として育つ(上の2人は夭逝している)。
- グルジアでは民族解放を求める独立運動の気運が高まっていた。
- 1888年(9歳)
- グルジアのゴリ市の教会学校に入学。93年までの5年間(9歳から14歳)を通う。
- 学校でグルジア語でなくロシア語を話さねばならない事実から民族主義に目覚める。
- 1890年(11歳)
- 父がチフスで亡くなる。
- 1894年(15歳)
- 奨学金をもらいチフリスの神学校に入学。5年間(15歳から20歳まで)を神学校で過ごす。
- マルクスの『資本論』を読み社会主義に目覚め、マルクス主義の学習グループを結成。
- 1895年(16歳)
- 社会主義思想に傾倒していたレーニン(24)が工場労働者のストライキを指導し逮捕・投獄される。これよりレーニンは革命家であることを使命とする。
- 1897年(18歳)
- レーニン(26)がシベリアに流刑される。
- 1898年(19歳)
- レーニン(27)を中心として社会民主労働党(ロシアの社会主義運動組織のネットワーク)が結成される。
- チフリス市内の地下社会主義組織 メサメ・ダシ(第三グループ)に入る。工場労働者に社会主義を講義する活動を始める。
- 1899年(20歳)
- 革命運動を原因として神学校を退学させられる。
- 友人の紹介で気象台の技師になる。
- 1900年(21歳)
- レーニン(29)は刑期を終え「イスクラ(花火)」を刊行。スターリンは一愛読者となる。
- 革命運動家としてコーカサス地方での工場労働者の組織づくり、ストライキ、デモの扇動に携わる。
- 1901年(22歳)
- チフリスで行われていたメーデーの集会で、スターリンらを指導しに来ていた運動家のクルトナフスキーが逮捕される。
- メンバーが大量逮捕されたことで残ったスターリンがメーデーを指揮し、繰り上がりでロシア社会民主労働党のチフリス委員に選出される。
- 気象台技師を退職し職業革命家となる。カンパで生計を立てる。
- 1902年(23歳)
- バトゥーミのロスチャイルド財団が経営する石油工場でストライキを計画し秘密印刷所を作る。その後逮捕される。
- 1903年(24歳)
- レーニンが小冊子「何をなすべきか」を発行し、皇帝政権を転覆させるための専従職業革命家組織を構想。
- ベルギーのブリュッセルで改めてロシア社会民主労働党が結党。このときの議長はレオン・トロツキー(23)。
- 党はレーニンのボリシェヴィキ(多数派)とユーリー・マルトフ(32)のメンシェヴィキ(少数派)に分裂。トロツキーはメンシェヴィキ。
- 1904年(25歳)
- 獄中からの逃亡に成功。ボリシェヴィキにつく。
- 日露戦争突入。
- 1905年(26歳)
- 1月:ロシアの首都サンクトペテルブルクで労働者のデモが勃発。軍隊が武力で鎮圧(血の日曜日事件)。このときレーニンは国外に亡命中。
- 2月:暴動はロシア各地に広がる。メンシェヴィキが革命を先導する最中、コーカサス地方のバクーで革命の名の下に武装部隊を結成し裕福層に対し強盗や恐喝を繰り返す。
- 革命運動の高まりによりロシア帝国は立憲君主制に移行革命が沈静化。
- 9月:日露戦争で日本が勝利。
- 12月:フィンランドで開催されたロシア社会民主労働党の大会でコーカサス地方代表に選出される。この大会ではじめてレーニンに会いスターリン(鋼鉄の人)の名をもらう。
- 1906年(27歳)
- ストックホルムの大会でロシア社会民主労働党が再統合。
- 1907年(28歳)
- ロンドンの大会ではじめてトロツキー(27)と会う。革命を一段と高揚させるということになったが、メンシェヴィキの影響により武装部隊による資金集めが禁止される。
- レーニン(36)の指示でグルジアのチフリスに潜入して銀行強盗。40人ほどの死者を出す。逮捕されそうになるが助かる。
- 前科者を組織し、合法、非合法の手段を問わず党の資金を集め続ける。
- 1911年(32歳)
- レーニン(40)がメンシェヴィキを追い出し中央委員会を構成。スターリンはメンバーに選ばれる。
- 以後、スターリンは1917の革命までのほとんどは流刑でシベリアにいる。(シャバに出ていたのは1年程度)
- 1914年(35歳)
- 第一次世界大戦勃発。
- 第一次世界大戦中に農民の指示を集めていた社会革命党(エスエル)が活発化。
- 1917年(38歳) 《革命の年》
- 2月:ロシアで自然発生的に革命が起きる。ペトログラードの民衆デモが大暴動に発展。兵士の反乱により皇帝が退位。国会の臨時委員会と、労働者・兵士の代表による評議会(ソヴィエト)により臨時政府が作られる。メンシェヴィキは臨時政府に参加する。
- レーニン(46)はチューリヒに亡命。トロツキー(37)はアメリカ。スターリンは獄中。
- 臨時政府が政治犯釈放を決め、スターリンが釈放される。
- 3月:ペトログラード・ソヴィエトでのボリシェヴィキ代表の3人のうちの1人になる。他の2人はレフ・カーメネフ(33)とムラーノフ。
- 4月:ボリシェヴィキ全国協議会で9人の中央委員会のひとりに選ばれる。
- 6月:ボリシェヴィキは戦争よりも革命を優先として、スターリンがデモを組織する。
- 臨時政府との対立からスターリンはレーニンをフィンランドに脱出させる。ボリシェヴィキはスターリンが指揮することに。
- 8月:レーニンの説得によりトロツキーがボリシェヴィキに。スターリンは中央委員、政治局員となりペトログラード・ソヴィエト軍事革命委員会を作る。
- 10月:臨時政府で首相と軍が対立するようになり、軍によるクーデターが勃発。反臨時政府の声は高まり社会主義革命の気運へ。
- メンシェヴィキが臨時政府から離れる。
- レーニンはベトログラードへ戻り拡大中央委員会で蜂起を可決。しかしカーメネフとグレゴリー・ジノヴィエフ(33)の2人が反対。レーニンに非難されるがスターリンはその2人を擁護し手なづける。
- 11月:臨時政府の軍によりボリシェヴィキの印刷所が急襲される。スターリンは現場で対応。
- その間、中央委員会の会合が開かれ蜂起の最終決定が出される。翌日にトロツキーはあっさりと臨時政府を瓦解。ボリシェビキによる革命が成功する。これに関してスターリンは関われず。
- 革命後、レーニンひきいるボリシェヴィキは政府として人民委員会議を設立(内閣に相当)。人民委員会議議長は首相にあたりレーニンが就く。
- 15人の人民委員(大臣に相当)にスターリンも選ばれ民族問題人民委員を担う。
- トロツキーは外務人民委員になった後、軍事人民委員となり赤軍を結成。
- 12月:反革命とサボタージュとの闘争のための非常委員会(略称:チェーカ)がつくられスターリンが指揮を執る。
中期
- 1918年(39歳)
- 1月:人民委員会議は憲法制定会議の解散を決定し武力で威嚇。これにて民主的手続きによる新憲法制定の道を閉ざず。
- 全ロシア=ソヴィエト会議により国名が「ロシア社会主義ソヴィエト共和国」となる。
- 党大会でボリシェヴィキは党名をロシア共産党と改称。
- 7月:全ロシア=ソヴィエト会議にてソヴィエト最初の憲法を採択。ここで共産党以外の政党は禁止されることとなり、一党独裁体制が確立。
- ロシアは依然、反対勢力による内戦状態。内戦の過程で階級の敵は殺してもよいという考え方が確立される。
- レーニン暗殺未遂事件が起こる。
- 1919年(40歳)
- 政府の最高機関である人民委員会議よりも共産党中央委員会政治局が実質的な国家の最高決定機関となる。国家の行政組織と党による二重構造。レーニン(48)、トロツキー(39)、カーメネフ(35)、ジノヴィエフ(35)、スターリンの5人がメンバー。共産党の当面の最大課題は内戦での勝利。
- 1921年(42歳)
- 内戦が共産党の勝利で終わる。経済の部分的な自由化「新経済政策(ネップ)」を実施。党内の反レーニン派は資本主義への回帰として反対。
- 1922年(43歳)
- スターリンのチェーカは国家政治保安部(GPU)となる。
- スターリンは共産党内の電話を含む盗聴システムを拡充。
- レーニン(51)は権力基盤を固めるためスターリンを共産党書記長(党の各局の調整役)に据える。
- レーニンが脳梗塞で倒れるが一命は取り留める。スターリンはレーニンの容態を安定させるという名目でレーニンに直接会える唯一の党幹部となる。
- レーニンの意向によりソヴィエト社会主義共和国連邦が成立。周辺国を配下に置く中央集権型の国家を目指したいスターリンと、連邦構成を目指したいレーニンとの対立が色濃くなる。
- この頃から後に内務人民委員部の初代長官になるヤゴダ(31)を配下にする。
- レーニンは遺言状でスターリンを批判書記長を降ろす記載。カーメネフ(38)やジノヴィエフ(38)に対しても批判。
- 1923年(44歳)
- スターリンはレーニンの後見役から降りると言い出したが、党中央委員会で正式に続けることが議決される。
- レーニンが脳卒中で倒れる。
- トロツキー(43)が反撃の狼煙を上げ後継者争いが始まる。
- トロツキーの勢いを恐れたカーメネフ(39)、ジノヴィエフ(39)はスターリン側につき、ブハーリン(スターリンよりも10歳年下のインテリ理論家)はジノヴィエフと親しくなり共同歩調を取り始める。
- 1924年(45歳)
- 党の代表者会議で分派活動による党からの除名決議(分派活動をしたとみなした者を処刑してもよい)を公表。
- トロツキーの健康状況が悪化。
- レーニン死去。葬儀は党書記長であるであるスターリンが執り行う。
- トロツキーを療養させレーニンの葬儀に出席させない。
- スターリンを批判するレーニンの遺言を鑑み、書記長のポストに対して辞意を表明するが、中央委員会総会で書記長に再任される。
- 1925年(46歳)
- トロツキー(45)を軍事人民委員から解任。経済行政部門を担当させる。後任にはジノヴィエフ(41)の推挙で派閥に関係のないフルンゼ(39)を就けた。
- 政治局はブハーリン(36)、ルイコフ、トムスキーが右派、カーメネフ、ジノヴィエフが左派、傍観するトロツキーに分かれる。
- スターリンはブハーリンを支持。さらに左派とトロツキーが結びつかないよう、最もトロツキーを批判しているのは左派であるとの吹聴をする。
- スターリンに歯向かい軍事改革を勝手に進めていたフルンゼが急死(毒殺された?)。後任にはトロツキーを恨むヴォロシーロフ(43)が就く。
- 以後、スターリンに対する静かな恐怖が党内に広がる。右派の地盤であったレニングラードに、側近のキーロフ(38)(演説がうまく優れた統制者)を第一書記として就かせる。
後期
- 1926年(47歳)
- 左派がトロツキー(42)との同盟を試みて説得するが失敗。
- ヴォロシーロフ(44)がジノヴィエフ派が軍部内に反党的な秘密組織を作っていると摘発したため、ジノヴィエフ(42)は政治局員の地位を失う。
- トロツキー、カーメネフ(42)も党規違反により政治局員から追放される。
- 政治局に反スターリン派はいなくなる。
- 1927年(48歳)
- 革命10周年記念日にトロツキー(47)はモスクワで、ジノヴィエフ(43)はレニングラードでそれぞれの支持者を用いてデモ。両名は共産党を除名される。
- カーメネフ(43)もジノヴィエフを弁護したため除名。
- トロツキーは姿勢を崩さないためカザフスタンのアルマ・アタへ追放。
- カーメネフとジノヴィエフは言動を撤回したため半年後に復党。
- 左派とトロツキーが一掃され、右派が次のスターリンの標的となる。ブハーリン(38)は察知しカーメネフとの接触を試みるが無力。
- 1929年(50歳)
- トロツキー(49)をソ連から追放。ブハーリン(40)は反対していたが可決される。トロツキーはトルコに亡命。右派全員が政治局から追放されるがその年のうちに謝罪して復権。
- 1934年(56歳) 《大粛清》
- スターリンの国家政治保安部(GPU)は内務人民委員部(NKDV)となり、粛清の実行部隊となる。
- キーロフ(48)がジノヴィエフ派を一掃させた後、党中央委員会書記・組織局員にまで出世。スターリンの後継者と目され始める。
- キーロフが古参議員よりクーデターを持ちかけられるが、キーロフはスターリンに報告。その直後にキーロフは暗殺される。(この年から38年までの間に1966名の代議員のうち1808名が処刑される。「大粛清」)
- 1935年(57歳)
- ジノヴィエフ(52)とカーメネフ(52)がキーロフ事件の首謀者とされ、拷問ののちに処刑される。
- 1936年(58歳)
- ヤゴダ(46)が内務人事委員を解任され、側近のエジェフ(41)を抜擢。
- 1937年(59歳)
- ブハーリン(49)は新憲法の起草にも参加していたが、党の雑誌の編集長を解任後、中央委員候補も解任、党も除名され逮捕。
- ヤゴダ(47)がドイツのスパイ容疑逮捕される。
- 粛清は赤軍にも及び国家反逆罪で8人の将軍が逮捕。秘密軍事法廷で裁かれ軍規違反、国家反逆、外国勢力との通謀の罪で処刑。最終的には赤軍だけで268,950人が逮捕され、そのうち75,950人が処刑、残りの193,000人が強制収容所送りとなる。
- 1938年(60歳)
- ブハーリン(50)が裁判を経て処刑。ヤゴダ(48)も処刑される。側近のベリヤ(38)が内務人民委員代理となりエジェフ(43)が解任される。
- 1939年(61歳)
- 粛清の弊害として官僚機構が機能不全が顕著に。その責任をとらされるようにエジェフ(44)が逮捕。
- 1940年(62歳)
- エジェフ(45)が処刑される。トロツキー(61)も刺客により暗殺される。
- 1953年(75歳)
- スターリンはベリヤ(63)、フルシチョフ(58)、マレンコフ(51)、ブルガーニン(57)ら側近たちとの夕食中に倒れ死亡。
- スターリンの死後、フルシチョフが党の書記、マレンコフが首相、ベリヤは第一副首相となりトロイカ体制が樹立したかに見えたが、すぐにベリヤがスパイ容疑で逮捕され処刑される。
- 1956年(XX)
- フルシチョフ(61)が党大会の秘密会議でスターリン時代の「大粛清」を暴露。しかしその誤りはスターリンの異常性格にあり、ソ連共産党、革命、レーニンに誤りはないとのした。
- 1991年(XX)
- ソヴィエト社会主義共和国連邦は消滅。
参考:中川 右介『悪の出世学』幻冬舎新書, 2014