アドルフ・ヒトラーの生涯

1919 まで無名/1933 まで前半期/1945 まで後半期

無名期

  • 1889年(0歳)
    • 4月20日にオーストリア=ハンガリー帝国で生まれる。父は私生児。父は3度結婚し3度目の子どもがヒトラー。
  • 1900年(11歳)
    • オーストリア第3の都市リンツの実科学校に入学。
  • 1903年(14歳)
    • 父が死去。郊外にある別の実科学校に転校。
  • 1905年(16歳)
    • 実科学校を中退。実家でニートになる。
  • 1907年(18歳)
    • ウィーンの造形美術学校を受験するが不合格になる。
    • 母が死去。肉親は妹だけになる。
    • この歳で父の遺産を自由に使うことができたため学費の心配はなかった。ウィーンで比較的優雅な暮らしをする。
  • 1913年(24歳)
    • ウィーンに見切りをつけ、ミュンヘンに向かう。
  • 1914年(25歳)
    • バイエルン陸軍に志願して入隊。各部隊間の連絡係である伝令兵となる。
    • 上等兵に昇進。勇敢な行動が評価され二級鉄十字勲章を受章。
  • 1916年(27歳)
    • 塹壕で被弾しベルリン側にある赤十字病院に入院(このときの怪我で生殖能力を失ったとの説もあり)。
    • ミュンヘンに戻るが、食料も物資も不足した厭世的な社会に嫌気が差す。
  • 1917年(28歳)
    • 軍に戻る。イギリス軍の毒ガス攻撃により一時的に目が見えなくなり入院。
  • 1918年(29歳)
    • 上等兵としては珍しく一級鉄十字勲章を授章。
    • ドイツ各地でデモやストライキ、武装蜂起が起き革命が勃発。
    • ミュンヘンを首都とするバイエルン王国では国王ルードヴィヒ三世が退位に追い込まれ王政が排された。この勢いはプロセイン王国およびドイツ帝国の首都であるベルリンに波及し、皇帝ヴィルヘルム二世はオランダへ亡命。これによりドイツ帝政が終焉を迎える。
    • ヒトラーは退院後、兵舎を統治していた労働者兵士評議会(レーテ)のもとで働く。
  • 1919年(30歳)
    • ドイツの敗戦が確定。
    • 国民議会選挙が行われる。最左派の共産党はボイコットしたが、8割を超える投票率となり、社会民主党、中央党、ドイツ民主党により連立政権が樹立される。制定されたワイマール憲法下で連邦制が導入され正式国名がドイツ国となる。
    • 社会民主党のエーベルトが大統領となる。
    • バイエルン州では左翼政党である独立社会民主党のクルト・アイスナーが首相となるが右翼によって暗殺。社会民主党のホフマン(左翼ではあるが穏健派)が首相となる。しかし急進的な左派、右翼から攻撃され、ホフマン政権はミュンヘンを離れてバンベルクに政府を移す。抜け殻となったミュンヘンでは、共産党と右派との対立が続いたが、共産党がロシアからの支援も受けて革命政権を樹立。バイエルンはホフマン政権と共産党政権という二つの政権が存在(また右翼も一定の勢力があった)。
    • ヒトラーは共産党政権下の連隊ミュンヘン労兵評議会委員に兵舎での選挙で選ばれる。
    • ホフマン政権の支持が強くなると、中央政府軍もこれを支持しミュンヘンの共産党は危機に瀕する。
    • 政府軍がミュンヘンに攻め入ってくると、ヒトラーは共産党政権側であったがミュンヘンを防衛する兵士に中立を呼びかけた。革命政権は崩壊したが、ヒトラーは革命政権を倒すのに貢献したため軍に残ることができた。任務は、兵士たちの革命政権との関連調査、反共、愛国教育をすること。愛国を主張する右翼勢力が勢いづきはじめ社会不安が高まると、右翼政党であるドイツ労働者党にスパイとして参加。結党メンバーの中心人物はジャーナリストのカール・ハラー(最初の党首)、元鉄道工場機械工で錠前師のアントン・ドレスクラー。
    • ヒトラーの演説が好評を博しドレスクラーに入党を依頼される。

前半期

  • 1920年(31歳)
    • ドイツ労働者党は国家社会主義労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeitpartei)に改称。中産階級層の支持を得る。
    • ヒトラーは党の専従の演説者となる。国防軍を除隊。
  • 1921年(32歳)
    • ほぼ毎週のようにミュンヘンで演説。
    • 極右政党のドイツ社会主義党との合同の話が持ち上がる。合同が決まる直前になると、自分を離党させるか、独裁を認めろとの条件を提示(ヒトラーは、ドイツ社会主義党の支部独自性、労働者支持、ベルリン本部といった環境を容認できず)。
    • 人気者を失う訳にはいかず、党はヒトラーを新党首に選出。ドレスクラーは名誉党首に祭り上げられ実権を失う。演説者を護衛する目的から発展した武力組織の突撃隊(SA)が結成される。突撃隊のリーダーはエルンスト・レーム(現役の陸軍大尉でもありながらバイエルン州右翼団体の戦闘部隊もまとめる。)党内のライバルはグレゴール・シュトラッサーという左派の論客。社会主義的な側面を強調して労働者階層の党員や支持者を増やすのに貢献。
  • 1923年(34歳)
    • 賠償金の支払いが滞ったことを理由に、フランスとベルギーがルール地方へ進軍。ドイツ中央政府はストライキを勧めるが、労働者へ紙幣を刷り過ぎハイパーインフレとなる。
    • 国民の怒りの矛先がフランスから中央政府に変わったタイミングで、ヒトラーはバイエルン政府を乗っ取ろうとクーデターを起こすが失敗(ミュンヘン一揆)。敗因は根回しをしていた軍の大物のルーデンドルフの影響が大したものでなかったこと、レームがミュンヘン軍司令官ロッソウ将軍の解散命令に従ってしまったこと。
    • ヒトラーは政府に逮捕される。レームは陸軍を解任される。党運営をアルフレート・ローゼンベルク(反ユダヤの論客。著作の「二十世紀の神話」がナチスの基本思想となる)に任せる。その間に党運営は混乱。
  • 1924年(35歳)
    • 禁固5年の判決。ナチスは活動禁止。一揆にはバイエルン州政府の高官、裁判所判事の一部も関係していたが、ヒトラーがひとりで罪を背負い沈黙していたため比較的軽い刑となる。刑務所で協力者の元「我が闘争」の後述筆記を実施。同年に釈放。
    • 世論が武力革命路線から議会選挙路線へと変わる中、一揆の影の指導者でもあったルーデンドルフ将軍は北部ドイツのプロテスタント系右翼政党であるドイツ民族自由党に入党。ドイツ民族自由党とナチスの一部が行動して「国家社会主義自由運動」を結成。ヒトラーはローゼンベルクを代表として出したがルーデンドルフが嫌うためシュトラッサーが代わりに代表として参加。選挙で全472議席中32議席を獲得。シュトラッサー、ルーデンドルフ、レームも国会議員となる。しかし次の選挙で14議席を失う。
    • 景気の回復に伴い極右への支持が相対的に弱まり、バイエルン州は極右勢力への警戒心を緩め、ヒトラーは模範的な態度を理由に釈放される。
  • 1925年(36歳)
    • バイエルン州の首相に懇願しナチスの活動禁止を解いてもらう。ナチ党の再建大会で自分がすべての責任をとることを強調し、唯一絶対の指導者であることをアピール。しかし演説が反響を呼びすぎ政府は2年間の演説禁止の命令を出す。
    • ドイツ国の初代大統領である社会民主党のエーベルト大統領が急死。大統領選挙には8人が立候補。ルーデンドルフ将軍も出馬しナチスも支持したが落選。決選投票となり、無所属のパウル・フォン・ヒンデンブルク、中央党のヴィルヘルム・マルクス、ドイツ共産党のエルンスト・テールマンで戦われた。結果、無所属で元参謀総長であるヒンデンブルク元帥が後任に当選。
    • この選挙でルーデンドルフが惨敗したため、シュトラッサーはナチスにの活動に専念し、「国家社会主義自由運動」に関わった主要メンバーもルーデンドルフを見限りナチスに入党。
    • シュトラッサーにナチスが弱い北西ドイツでの党勢拡大を指示。シュトラッサーは勢力を拡大。
    • シュトラッサーの秘書がハインリヒ・ヒムラー(後に親衛隊のトップ。秘密警察ゲシュタポを指揮。強制収容所を監督。)からヨーゼフ・ケッベルス(後に啓蒙宣伝省の大臣)に交代。

参考:中川 右介『悪の出世学』幻冬舎新書, 2014

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